昭和52年07月31日 朝の御理解



 御理解 第61節
 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」

 昨日伊万里の竹内先生が、東京へ出張しておられて昨日帰って見えて、こちらへ寄られました。それでまぁ色々お話を聞かせて頂いたんですけれども、最近東京では喫茶店でコーヒーを飲みながら、辻説法と言うのが流行っておるというお話でした。その新聞を切り抜いて持ってきて、ここへ置いていっておられます。味も格別コーヒー説法と若者三百元で満ち足りた顔と。みんな悩みや悲しみがこちらも原点に戻りこうぼうと。どうもまぁインタビューの記事が載ってる訳です。
 お寺さんもやっぱりお坊さん呼んでそして、コーヒー飲みながら若い者の悩みを聞いたり、またお説教をしたりと言うのだそうです。例えば音楽喫茶とか私は行った事もないですけれども、まぁ落書き喫茶と言う様なものまで、この頃段々出来て色んな例えばそういう傾向が、段々その空しゅうなってきたんですね。そして最近ではそういうその辻説法をお茶を飲みながら語る。または話を聞くと言う様なその傾向になっておる。あちらへ行かれて、東京グランドホテルと言うホテルに泊まられた。
 これは禅のお寺さんのまぁ経営になるのだそうです。立派なホテルだそうですが、まぁ殆んどが全国から東京へ出てくるお坊さん達が利用されておるけれども、それだけではやっぱり経営が出来ないというので、一般の人もまぁ泊めるというホテルだそうです。それにもう一部屋一部屋にこの禅の本がどうぞ皆さんお持ち下さいと言うような訳でしょう、置いてある。それが非常にその一般人にも人気があって、お客さんが多いと言う話でした。まぁ言うならまぁ混乱期とでも申しましょうかねぇ。
 日本でも終戦そして終戦後のあの混乱時代。そこから一つの刹那主義的な、快楽主義と言った様な時代から、段々そういうものでは得られないもの、言うなら空しい所から何かを得ようとする傾向が若い人達の上に出来てきたという事は、まぁ有り難い事だと言う訳なんです。それでです例えばその若者の悩みとか悲しみを聞いて、そしてまぁお説教説法によって、果たしてどんなに助かるかと、まぁちょっと心に安らぎが出来るぐらいな事だけでは出来ませんし。
 それが本当の助かりに繋がるという、その本当の助かりを求めて、人間が事を起こしまたは物を思う見るという事になって来ると、いわゆる真実本当に助かられる話を聞こうとすることにもなって来るでしょう。でそういう意味で今日ここの六十一節を頂きましてね、金光大神は、神より金光大神に何時までも尽きぬおかげを話にしておくのぞ、何時までも尽きぬおかげを話にしておくと言う。
 そんならそういう尽きぬおかげの頂けれる話は、ほんなら金光教のものだとまぁ言いたいのですけれども、ほんなら果たして金光教の信者言うなら信奉者が、話を聞いてどれほどに助かってきたかと。確かに金光教が始まって百十八年間、言うなら日本中に沢山な教会が出来て、まぁ全盛の時代は、もう七十万も八十万もの信者が出来たとまぁ言われる。まぁ最近では、それが五十万と言われております。その信者達がおりますけれども、ほんなら金光教の信心でどれほど助かりを頂いておるかと。
 間違いのない言うなら助かりの話を聞いておるかと、という風にこう煎じ詰めてまいりますとです。愈々私は合楽の信心がいよいよ世に問われる時が近付いてきたなと言うような感じがするんです。
 合楽のいうなら話しと言うか、今合楽で言われておる合楽理念と言うのは、もう絶対合楽理念は助かりの理念だと。しかも例えばその哲学的な難しい話でもなからなければ、と言うて程度の低いただご利益主義の話でもない。どこまでも天地の道理に法ったしかも、親の代よりも子の代子の代よりも孫の代と所謂、金光大神が御理解百節に教えられてあるように、家繁盛子孫繁盛の道を教えると教えられるその道をです、実際なものにして、いわばここで伝えておるのが合楽理念です。
 世の中が段々やはり変わってくる。そして様々なとこを通るけれども、矢張りこれではいけん、これではならんと言った様な雰囲気が生まれてくるというか、そういう傾向が必ずもっと出来てくるだろう。それが人間だから。普通の動物と違う所はそうです。落ちる所まで落ちた。けれどもこれではいけん、これではならじと言う様な心がです、何とはなしに出来てきて、そして本当の意味においての助かり、
 昨日のいつでしたか昨日一昨日でしたかね。人間が本当に助かるという事は、例えば物やら金で人間の幸福というものは許されない。どんなに幸福になろうと思うて金を貯めても矢張り不安は募るばっかり。いやぁもう人間は健康でさえあればと、健康を看板にしておってもです。それで言うならば幸福いわゆる真の幸福とでも申しましょうかね、本当の幸福は得られません。結局許される神様に許されなければ幸福というものは感じる事が出来ません。神様に許されるもの。
 それには神様に許されるためには神様の心が分からなきゃならない。神様の心と通わなければならない。そこからいわば神様に許された幸福と言うものがある。それをまぁ真の幸福と言う。色々やってみたただあっという間に消える、いわば幸せと言った様なもので終始しておったら、人間は愈々もう愚劣につまらんようになってしまう。こんなこっじゃいけん。何か人間の知恵力で、本当の幸福と言うものを見出せるものならば見出そうと、ほんなら努力もしてみた。
 けれども人間の力で得るところのものと言うのは、もうたかが知れておる。まぁ限度があると言った様な壁にぶっつかったんですね。そしてそこに何か大きな偉大なものに縋って助かろうと言う様な傾向が、いうならば見え出してきたそういう時にです。ほんならこれならば絶対だぞと言うて、いわば説法出来れる様なです教えが、果たしてあるだろうか。そら成程素晴らしい事を言うなら天地の道理を説き、又は真理を説き法則を説くというのですけれども。
 はぁ成程そういうもんだなぁと分かっただけでは、幸福に繋がらないです。それがね言うならばおかげに繋がらなければ。病人は健康に経済に困っておる人は、経済に不自由しないような、様々な難儀の中から私は助かっていく、いわば手立てをしかも確信をもって絶対と言いながらです、その絶対な道を説かれるのが合楽理念だと思うんです。もう合楽理念をマスターして、合楽理念を行じていくより以外にはないと言う様な所まで、もっともっと合楽理念が立派なものに。
 完璧に愈々を目指して進めて行かして貰うて、世の中の沢山な難儀な人達に、本当に分からせるだけではなくて、おかげを頂かせる手立てと言うものがです。金光大神の御教えの中にある。それが昨日の御理解ではないですけれども、余りにもそれが散漫であった。教祖の教えの、素晴らしいそういう内容を持っておる教えでしたけれども、その証拠には百十八年たった今日、教祖様が仰る様に親の代よりも子の代と言うように、愈々家繁盛子孫繁盛の道を教えてあるのにも拘らず。
 家繁盛子孫繁盛になっていなかったのはどういう訳なのかと。そこにほんなら合楽が誕生したり、矢張り合楽で言うところの合楽理念を、愈々合楽理念を頂いた方達がです。身をもってそれを行じて身をもってそれを現していく。言うならば合楽理念の実証者に一人ひとりがならなければならない。そんならそういう事は大変に難しいことかと言うと、本気でやる気になる。本気で幸せになりたい。
 本気であの世この世を通して助かりたいという人間の言うなら重大事に気付かせて貰うて、それを愈々本気で勉強しよう、行じようという事になったら、誰でも頂けれる様に、みやすう手掛かりがつけられる。みやすう、いや楽しゅう嬉しゅうしかも愉快にそれを行じていけれる。行じていく、その後ろからはもうおかげが伴うて来るというほどしの私は、内容を持ったものが合楽理念だという風に思うんです。
 私は今日は、昨日竹内先生から聞かせて頂いた。ほんなら面白い傾向ですねと言うのじゃなくて、本当にそのまぁ有難い傾向だという事です。けれども結局そんならどんなに素晴らしい話を聞いても、それもまた空しいという事に段々分かってくるでしょう。そして本当なもの、いや本当に助かりに繋がる言うならば話を聞きたいと言う様な傾向になって来るでしょう。それと相まってほんならここに、合楽の誕生があり合楽理念の確立と言う事がです、大変な深い意義を持つものだという風に今日は感じました。
 まぁそういうまぁ言うなら夢の様な話かも知れませんけれども、もうとにかく私共が先ず合楽理念とは、かくも素晴らしいおかげの頂けれる、言うなら確実に頂けれる確実に御徳が受けていかれるほどしのものである事を、身を持ってまず実証させて頂いてそれこそ神心となりて、人に伝えずにはおけない、言うならばおかげを実証しながら人に伝えて行く。それが真の道を踏んで行く事になり、それがまた神になるのぞという内容が合楽理念には説き明かしてあるそれが神になるのぞ。
 いわゆる生神を目指すという事がそれなんです。それには矢張りほんなら合楽理念のいわば一つ行者を目指させて貰うて、日常生活の中に合楽理念による生活が出来るようにならなければならない。そこからねそれこそ有難いなと本当に信心ちゃ楽しい、いや愉快だと言う様な道が開けてくるです。そういう意味でね私共がもちっと合楽理念を頂いた事。そしてここに合楽理念の確立がなされておるという事。それを第一番に実証したのが末永先生だと思うんです。もう間違いなしにですね。
 例えばほんなら、末永先生が十年間なら十年間ここで修行をさせて貰うた。ほんなら十年間なら今日から十年間本気で合楽理念の行者としての日常生活が出来る。そこからです、もう何と申しましょうかね、おかげの即決と言う私は昨日からそう言う事を言ってるんですけれども。何日たたなければおかげにならんと言う様な事じゃないと。それは病気であろうが経済の問題であろうがです。
 それこそあっという間にまぁそれを今までは奇跡的なおかげだとこう言って来たけれども、合楽理念が本当に分かったら、それは奇跡ではない。当然の事として頂けるほどしの、言うならば力を持っておるのが、金光大神の教えをここに合楽理念という助かりの理念に結集していうなら、そういう教祖の信心のエキスの様な物です。それが自分の身に付いて来るのですから。
 だからそれがね夢ではない事実をね、それが言うならば空言ではないと言う事をです、愈々銘々実証して行かなければいけないと思うのです。末永先生が全然言うならば道のいわばその異郷国であり知った人も無い所に、しかも家族四人で出かけさせて頂けれるほどしの度胸が出来てくるんです。そこにはもう十日目から人が助かる。全然言葉が通じないいうならばあちらの人達が助かる。
 先日も手紙に、お月次祭に八十五名お参りがあっておる。その中の半分以上は、外人の人達だとこう言うのですから。まだ二ヶ月ですよ。私が言うおかげは即決という事が、嘘じゃないでしょうが。二三日前もお話した様に、それこそブラジル辺りに出稼ぎまぁ言うなら出稼ぎですね、行った人達がもう大変な血の出るような苦労をして、まぁそれぞれ一家をというか成功を見ておる人達は、もうそれこそ血の出る様な所を通って、辛抱しぬいて、現在の地位とか言うなら財産を築いておる。
 ましてこれが宗教のほんなら本部辺りから何の援助もないと言われる、ほんなら末永先生が、家族四人で行かれるが、どういう事になるだろうかと言うて、昨日の晩あちらに行く時に世話して下さった交通社の方が、今こちらへ帰って来ておられました。昨日の晩ここへ見えられました三人で。そして色々話を聞かせて頂いたんですけれども、それがねたった十日足らずで、しかもビリグイだけではない、サンパウロの月に一回しか二回しか行かないサンパウロにです。
 先生が見えるならと言うて、沢山の人が集まるようになったと言うのは、どんなに考えてももう本当に不思議でたまらんです。例えばほんなら、皆さんここの教会が出来て今年が十年なんですよと。ですから十年でいうならこれだけの物が出来たんです。いうならば、ブラジルで言うならば十日間で八十人なら八十人の信者が出来たと言うのは、まぁその決して合楽と繋がりという事じゃない。合楽の信心はそういう信心ですという風にまぁ話したんですけれどもね。
 十年でここは出来たんですよこれだけの事が。しかもここがもう狭うなって、今度上のほうへまた三反あまりの田んぼを買わせて頂いて、今地りがあっておりますよと言うたらもう本当にたまがっておられました。だから大坪さんな腑がよかと言うものではなくて、合楽理念のいわばを元にしていうならばおかげを頂けばです、そういうおかげがほんなら、誰彼の上にでも頂けれる。ただ大坪先生と末永先生の、いうなら独壇場と言った様なものじゃないという事。
 だからです本気でほんなら十年なら十年をです、一つの修行期間としてです。しかも生涯という事ではないあの世までも持って行けれるほどしのものが頂けるのですから。しかも世の中は今です、いうなら混乱状態から少しこれではいけんと言った様なその風が少しでもこう見えてきだしたという事。もう自分さえ良かればと言った様な言うなら浅はかな考え方がなく、そして本当の幸せとは、本当の幸福とはと言う様なものをです、訪ね求める言うならば、時代が必ず来るだろうと。
 それは、言うならばまぁ何と言うでしょうかね。教学者とでも言うでしょうか、学者のいわば素晴らしい学者という人達はです。言うなら科学とか医学とか様々な学問によるところの幸せと言うのは、もうこれで終止符を打ってるようなものだと。人間が人間の力で言うならば、月の世界にまで行けれるようになったという事がもう限度なんだと。そらまぁ火星にも行けるかも知れません。
 けれどもそれだから幸福という事ではないんだと。どんなにほんなら科学も医学も、人間の幸福の為に幸福のためにと言うて進歩したんだ。けれどもそれがほんなら進歩したからと言うて人間の幸福ではないという事が分かって、後は心あるのみだという風にまぁ言っておられるという事です。いわばその学者のいうなら先端を行く学者は、ぎりぎりの所を極めた。そこをほんならばいうなら宗教者が受け持たなきゃならない場面であるけれども。ほんならあらゆる宗教者がです。
 今までほんなら金光教で百十八年間のそれがです、ほんならどれほどにそれを間違いなく救い助けられるものを示してきたか。どれだけ言うならば仏教とかキリスト教とか大宗教と言われる宗教が、人間の言うならば心だけではない、形の上にも助かりを現し得たかと。益々例えば混迷に陥っていくだけである。人間の言うなら本当の救い助かりというものはもうとにかく、もうキリスト教を勉強すれば勉強するほど、仏教が分かれ分かるほど、混乱しなければおられないほどしに、助かるという事は難しい。
 それを金光教祖はおかげは和賀心にありとこう言うならば簡潔に教えられた。所がその和賀心という事がです。どういう心のいやどういう信心をさせて頂かなければ、その和賀心が頂けないかと言う事をです。間違いなくみやすういわば説いてあるのが、合楽理念だという事なんです。そんならばもう大変な難しい事でとても、誰にでも出来る事じゃなかろうと言うのがです。
 ほんなら私ぐらいな頭の悪いと末永先生と言うて、大変気の利いた人ではあったけれども、大変頭が良いという訳でもない、特別器用なという事もない。ただ一生懸命合楽の信心を頂こうという修行をしたというだけに過ぎない。しかしそれが十年ぐらいでもしそれが本当に出来るとするならです、本気でね私共が愈々合楽理念の行者と言うと、大変難しいようですけれども生活の中に合楽理念を元にしての商売。合楽理念をを元にしての、いうならば百姓。
 合楽理念を元にしての日々という事になって来る事をです、もうそれこそあらゆる角度から説いてあります。だからそれを聞くだけではなくて本当にそれを行じていかなければならぬ。合楽理念を元にして商売をするという生き方ですよ。天地の親神様の言うならば願いと言うものが、もうそれこそ自然界には一切をもうそれこそ億年かかっても丸うせずにはおかんと言う働きがあると言われます。
 その働きがです愈々起こっておる。人間が本当の幸福を求め人間が本当の幸福と気付かせていただく。相まってほんなら合楽の誕生であり、合楽理念の確立である、縁を頂いておる者とても、こういう言うなら素晴らしいチャンスはないのであり、そういう時に縁を頂いたという、大いなる神様の働きをです、感じなければおられないと私は思うです。ね。愈々合楽理念のいうならばおかげの実証者を目指して信心を進めていかなければいけません。
   どうぞ。